東トルキスタン共和国トルコ系イスラム教徒によって、20世紀前半に中華民国の新疆省であった中央アジアの東トルキスタン地方において樹立された政権。歴史上2度にわたり、それぞれ別々の地域を拠点として樹立された2つの政権があり、いずれも一定の期間東トルキスタンの一部において実効的な独立政権を実現した。
第2次の東トルキスタン共和国は中国国民政府との新疆省連合政府を経て中華人民共和国に侵略されて消滅したが、それ以降、主に国外を中心に東トルキスタンの独立を主張するウイグル人活動家たちによって復興が試みられている。例えば、天安門事件の翌年1990年、新疆西部のアクト県バリン郷において起こった「バリン郷事件」では郷政府を襲撃したウイグル人住民が、「東トルキスタン共和国」の樹立を宣言したものの、わずか2日間で鎮圧されたと伝えられ、2004年にはアメリカで同名の東トルキスタン亡命政府が樹立されている。
本項では時系列に従い、東トルキスタン南部のタリム盆地を中心とした第1次東トルキスタン共和国(1933年~1934年)、東トルキスタン北部のイリ、タルバガタイ、アルタイの3区を拠点とした第2次東トルキスタン共和国(1944年~1949年)について順に述べる。
第1次(1933年~1934年) [編集]
第1次の東トルキスタン共和国は、1930年代始めに東トルキスタンを支配していた新疆省政府に対してウイグル人が主体となって現地のイスラム教徒の独立運動を糾合し、タリム盆地西南部のカシュガルに建設された政権である。
この政権の発足は、1931年にクムル(ハミ)、1932年にトゥルファンで、当時新疆に進出してきた甘粛省のイスラム教徒(回族)軍閥である馬仲英に触発されて起こった反乱が契機であった。クムルのホージャ・ニヤーズらに率いられた反乱勢力は、省政府軍の攻撃を受け、西方へ逃亡した。
一方、回族軍閥の侵入を受けなかったタリム盆地南部のホータンでも1933年初頭に、ムハンマド・アミーン・ブグラらが、在地の宗教指導者をリーダーに戴き、反乱を起こした。ホータンの反乱軍は漢族の官吏を追放してホータンを支配すると、西のヤルカンド、カシュガルへ進軍し、クムル、トゥルファンから逃亡してきた勢力を糾合して11月12日に東トルキスタン・イスラーム共和国の建国を宣言した。
共和国の大統領には、クムルの勢力を代表しホージャ・ニヤーズが、首相にはホータンの勢力を代表しサービト・ダーモッラーが就任した。彼らはイギリス、トルコなどの諸外国の承認を得て独立を国際的に認めさせようとしたが失敗している。
一方このとき、トゥルファンを占拠する馬仲英に脅かされていたウルムチの新疆省政府はソビエト連邦に介入を要請。翌1934年の初頭に新疆に入ったソ連軍によってトゥルファンを追われた馬仲英の軍は、ホータンに侵攻し、東トルキスタン・イスラーム共和国の軍隊を壊滅させた。
共和国崩壊を受け、大統領のホージャ・ニヤーズは、ソ連を通じて省政府督軍の盛世才と交渉を行い、首相のサービト・ダーモッラーを新疆省政府に引渡し、自らは省政府副主席に就任した[1]。
第1次東トルキスタン共和国は宗教指導者に率いられた反乱をきっかけとするが、共和国の設立に中心的に活躍したのはロシア領の西トルキスタンで1910年代に行われたジャディード運動に影響を受けた商人・知識人層であり、20世紀初頭から始まった東トルキスタンの民族運動のひとつの結実を示す事件であった。
第2次(1944年~1949年) [編集]
第2次の東トルキスタン共和国は、第二次世界大戦期にソ連の支持を得て高揚した東トルキスタン独立運動によって、新疆省の北部に樹立された政権である。中華人民共和国では、中国革命の一環として行われた反国民政府運動のひとつと見なされ、彼らの政治運動はイリ、タルバガタイ、アルタイの三地区を支配したことから「三区革命」と呼ばれているが、実際には中国からの独立政権を目指していた。
1944年にイリ渓谷のグルジャ(伊寧市)で蜂起した反乱軍が同年11月12日に建国した。反乱軍にはソ連軍(赤軍)が、装備、要員面で協力しており、12月までにイリ地区の全域が反乱軍の手に落ちた。また、翌1945年には、ソ連領の西トルキスタンで教育や訓練を受けたカザフ人のゲリラ勢力が、アルタイ地区、タルバガタイ地区を占領し、東トルキスタン政権に合流した。
共和国の元になった反乱軍は親ソ派ウイグル知識人のアブドゥルキリム・アバソフが指導していたが、共和国政府は、ウイグル人だけではなく東トルキスタンに居住する全テュルク系ムスリムを糾合させる汎テュルク主義を標榜していた。共和国の主席には親ソ派ウズベク人の宗教指導者アリー・ハーン・トラが、副主席にはクルジャの名家出身の有力者アキムベク・ホージャが就任し、ムスリム社会の上層部の人々が積極的に政権に招聘された[2]。
しかし実際には、共和国は軍事部門を中心に、ソ連国籍を持つロシア人やテュルク系民族出身の要員に指導されており、ソ連の強い影響下に置かれていた[3]。共和国政府では、中国国民党との交渉で台頭した親ソ派のアフメトジャン・カスィミが次第に実権を掌握していった[4]。
1945年9月、東トルキスタン軍が、ウルムチへの進軍を始めたため、新疆省政府はソ連に和平の仲介を要請した。「独立国」東トルキスタン共和国の頭越しにソ連と国民政府の直接交渉が行われ、ソ連はアリー・ハーン・トラ主席を自国に連れ去ってしまった。この結果、東トルキスタン共和国は1946年、ソ連の意思に従って新疆省政府に合流した。
しかし、新疆省政府と東トルキスタン共和国政府が合同して成立した新疆省連合政府は1年後に崩壊し、副主席アフメトジャンをはじめとする旧共和国派はイリ地方に退去して、かつての東トルキスタン共和国の領域を再び支配しはじめた。
1949年、国共内戦を制した中国共産党は、新疆の接収を行うために、鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京の政治協商会議に招いた。しかし、8月27日、北京に向かったアフメトジャン、アバソフ、デレリカン・スグルバヨフ、イスハクベグ・モノノフらイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内で消息を断ち、首脳を失ったイリ政府は混乱に陥った。残されたイリ政府幹部のセイプディン・エズィズィが、急遽政治協商会議に赴き、共産党への服属を表明した。9月26日にはボルハンら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。12月までに人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された
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